ヨメろぐ

嫁を通して見た小宇宙!同居人の介護のため、31年間続けた仕事を辞めてヨメはじめました。ちょっと笑える日々のことをイラスト付きで更新中✍

真夜中のティータイム

 

目が覚めた。

眠れない・・・。疲れているのに眠れない。

ばあちゃんと施設の母が同時期に体調不良。ヨメはドタバタ走り回る・・・。はあ〜。

母の日のプレゼント、モンブランケーキを1人ほおばリ、床にころがっている本を手に取る。

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「幸福とは何ぞや」佐藤愛子著 中央公論新社

幸福・・・いつ借りたっけ?ヨメ、病んでるな、とページをめくる。

〜以下抜粋〜

『同年輩の女性が来て、こんなことをいった。この年になるとこうしたい、なりたいと思うことは何もなくなったけれど、ただ一つ、人に迷惑だけはかけずに死にたい、と。それは老人の誰もが口にすることだが、いくらそう思っても老いるということはどうしたって迷惑をかけることなのである。かけたくないからといって自殺してもその後始末で大きな迷惑がかかる。そんなことはわかっているのだが、それでもそう口に出す。出さずにはいられない。その気持ちを思うと私は暗澹となる。現代を生きる我々はいつの間にやら「情」を失った。かつての日本人にあった「なんぼなんでもほっとけない」というきもちは、「仕方がない、それぞれの生活があるのだから」という合理主義によって消え去ったように見える。そうして「仕方ない」から「当然」へと移行し、その空白は政治の責任になった。個人の物質的安穏を守ることと引き換えに、「情」は消えたのである。

 人生の可能性が日々減少していく老人に残された喜びはひとつ、「家族の役に立つ」ということではないかと私は考える。老父の人生経験と知恵は息子にとって有難い指針であった時代、おじいちゃんは幸せだった。おばあちゃんは日常の細々とした知恵と心配りで役に立っていた。喧嘩したりうるさがられたりしながらやっぱり大切な存在だった。その時代は老人も若い者も単純な同じ現実を生きていたからであろう。

 今、老人の経験は何の役にも立たなくなった。若い人に教えてもらわなければチンプンカンプンのことがあまりに多い。急速に進歩したこの現実に対応するにはあまりに無知である。そうして老人はいてもいなくてもいい存在から、役立たずのお荷物になってしまった。国政が年金や老人福祉に力を入れてくれるのを頼りに孤独になれるしかないのである。』

ヨメも「お荷物になる」日は近い。心せねば。

まっ、「幸福」ってやつは本人が幸福と思えば『幸福』なんだよ。

 

さあて、外が明るくなってきた。日曜日の朝、打ちっぱなし場の球拾いアルバイトに行く時間だな。